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戦国時代に上杉謙信が築城し、江戸時代は本多氏の城下町として、千曲川舟便の起点、物資の集散地で繁栄した飯山市。この地でいつから仏壇作りが始められたのか定かな記録は残っていませんが、室町時代から仏教信仰の篤い場所であったことや木材などの仏壇原材料が豊富にあったこと、城下町や寺社の政策として仏壇作りが取り組まれたこと、漆塗りに最適な気象条件と豪雪などの立地条件により家内工業が発展しやすかったことなどの条件が重なり、今日まで発達してきました。飯山仏壇の制作は作業が細分化され、部品作りから組み立てまで地域内で一貫して行われています。昭和50(1975)年には経済産業大臣により「伝統的工芸品」の指定を受け、今なお地域の職人たちがその技と伝統を守り伝えています。
飯山仏壇がいつから作り始められたのか、実は確かな記録は存在しません。しかし、ただ確かなことは、室町時代には北陸から飯山を中心とする北信地方に浄土真宗が伝わり、以来、信仰が盛んだったことが仏壇作りを育む土壌になったと言われています。また、地元の言い伝えによると、元禄2(1689)年に甲府から寺瀬重高という人物が来て素地仏壇を作ったとされ、一般的にはこれが飯山仏壇の始まりとされています。漆仏壇の誕生はそれからもっとずっと後世のことで、越後潟町出身の鞘師屋佐七という人物によって作られました。
幕末になると、稲葉喜作という仏壇彫刻の名手が現れ、飯山仏壇をひときわ工芸品として優れたものにしました。この稲葉家の祖先は京都に住んで仏門に帰依したと言われており、このことから飯山仏壇が京都の流れを汲んでいることがわかります。喜作の頃から飯山仏壇の評判は高まり、制作方法もより複雑になって細分化していったと考えられています。
全国的にも珍しい飯山の仏壇通り
飯山仏壇は、飯山市の北部、昔ながらの雁木が連なる愛宕町を中心に造られています。11軒もの仏壇店が軒を連ねる約300mほどの通りは、通称「仏壇通り」とも呼ばれ、年間、約1000本の仏壇が生産されています。市内の仏壇関係就業者は現在約150名。全国でも有数の生産量を誇っています。一般的に仏壇通りというと東京・浅草が有名ですが、飯山のようにひとつの通りにこれだけの職人と仏壇店が集まっているのは、全国的にも大変珍しいのだとか。しかも、浅草はもともと集客力が高い繁華街ですが、飯山市は人口約2万人の小さな地方都市。その中で仏壇だけの商店街があるというのは、極めて稀だそうです。
良質な木材をふんだんに使用し、全体に蒔絵(高蒔絵)が描かれ、それが金具と金箔の美しさと相まって、ほかの地方には見られない特有の趣を醸し出す飯山仏壇。独特の技法・肘木組みによって作られる宮殿がよく見えるように細工された弓長押も飯山仏壇の特徴のひとつです。
仏壇は、先祖や亡くなった人をまつるためだけのものではなく、目に見えない浄土や阿弥陀如来を形にし、おまつりする場所であり、お参りすることで感謝の心が芽生え、安らぎを感じる場所でもあります。このような仏壇を子々孫々まで大切に守り継ぐために、線香やロウソクのススでくすんだ金箔や漆は「おせんたく」という方法で洗浄、修復することができます。
飯山仏壇はその特徴である「本組み」により、クサビを抜くと1つひとつの部品に分解できる仕組みになっています。「おせんたく」をする場合、まずは、お預かりした仏壇をパーツごとに分けて丁寧に分解します。柱から屋根、扉などについている全ての金具を取り外し、細かいところまで磨けるようにさらに分解します。それらの部品を洗浄、乾燥し、新たに漆を塗ったり、金箔を貼り直し、本来の素材の輝きを蘇らせます。その後、キレイになった金具や蒔絵などを取り付け、各パーツを丁寧に組み立てることで新品同様に生まれ変わります。何代にも渡って永く使われることが前提の仏壇だからこその先人たちの知恵が今でも生かされています。 このおせんたくに要する期間は、1カ月半程度。だいたい50~100年周期でおせんたくされ、費用は修繕の度合いにより変動しますが、新品のほぼ半額位と言われています。
岸田仏壇店でおせんたくをされていた、明治時代から受け継がれて来た仏壇。この仏壇は2回目のせんたくだそう
1つずつの部品は丁寧に分解され、研磨して金箔を剥がし、下地をかけて再度漆をかけて金箔が貼られる。古い金具は金具屋で色上げをしてもらう
おせんたくが終わり、これから修復をする仏壇。伝統的な牡丹と孔雀の柄の美しさが見事に蘇っている
制作の作業が細分化され、部品作りから組み立てまで地域内で一貫して行われる飯山仏壇。古からの技を伝承する匠たちに、作業のようすや現在の飯山仏壇の環境、仏壇作りへの想いを聞きました。
職人歴:昭和28(1953)年から
見えない部分まで塗り替えができる飯山仏壇の宮殿
飯山仏壇の特徴は、なんといっても「せんたく」ができるようにバラバラになるところです。これは日本全国、ほかに類を見ない大きな特徴で、宮殿も、大肘木から肘木を抜くことで分解することができます。結果的に、上からひとつずつ張り付けているほかの地域の仏壇と見た目は同じですが、購入から30~40年経ったあと、分解してきれいに塗り替えることができるのです。このように全部の部品を外れることで、外からは隠れてしまう裏側なども、隅々まで塗ることができます。
宮殿の形は、仏像が真ん中に入る場合は多少大小が変化しますが、飯山の場合、8割型は形が決まっています。木材は、マツやホウノキを使いますが、やわらかいマツは穴を空けるとすぐに欠けてしまうので、組物(くみもの)にはホウノキなど細工をしやすい木材が使われます。
全国に誇れる飯山仏壇の宮殿の技
私が宮殿師に弟子入りしたのは、昭和28(1953)年の4月1日。中学を卒業した15歳の時でした。今では飯山の宮殿師は私ひとりになってしまいましたが、当時は4人の職人がおり、最初は師匠に従って毎日ひたすら木釘を作っていました。春に山からウツギの木を切って来て、やわらかいうちに乾燥させ、冬になると硬くなった木を水に入れてやわらかく戻して、削って木釘にするのです。それをくり返して、3年ほど経ってやっと徐々に小さい宮殿を作り始めることができました。
それでもすぐにはものにならず、作り始めて5年くらいは見栄えが悪いと親方に完成品を潰されていました。昔は今のように機械もなく、すべて手作業によって木を切って加工していたので、ひとつの宮殿を作るのに1カ月はかかっていましたし、今ほど大量生産もしないので、手間をかけて丁寧に上手に作ることが重視されており、両側の形が揃うように美しい格好を作り上げることが一番の難しさでした。しかし、一度作り方を覚えてしまえば、設計図は頭に入り込み、今ではすっかり作業は身体に染み付いています。誰かが同じように真似て作っても、自分の制作した宮殿はすぐにわかります。全国の宮殿師はお互いに「自分の地域の宮殿が一番」だと自負しているとは思いますが、私には、飯山仏壇の宮殿の技は全国に誇れるものだという思いがあります。
宮殿は寺院の本堂の屋根の部分にあたるという。ブロックのようにパーツを組み合わせて重ねることでできた宮殿は、組立と逆の順序で分解することができる
彫刻も、彫刻刀を使って鷲森さんの手で仕上げられる。素早くリズミカルな彫刻は、まさに職人技
明るい陽光が差し込む鷲森さんの作業場。ここでおひとりで宮殿を作っている。かつてはひとつ作るのに1カ月かかっていたが、今は機械が導入され、1週間で仕上げられるという
職人歴:昭和57(1982)年から
温故知新の心を大切に、日々変化する時代のニーズに応える
蒔絵は、仏壇を広げた際にもっとも目立つ部分です。蒔絵師が何人もいた時代は、各人の個性によりさまざまな絵柄が見られましたが、今では私ひとりとなってしまったため、「どこの仏壇屋に行っても同じ絵だ」と思われないように、独特の絵柄を描いてみたり、今風の図にしてみたりと工夫を凝らしています。また、かつては、牡丹に孔雀、竹林の七賢人、秋の七草などが定番の絵柄と決まっていましたが、今は亡くなった方が桜の絵が好きだから桜を描いたり、飯山の市花・椿を描いたりといった要望が増えています。蒔絵はほかの工程と違い自由に作風を変えられる部分のひとつ。そのため、お客様のニーズに応える絵をつけることができるのです。色合いも昔は金箔のみでしたが、最近では鮮やかな色をつけるのが人気です。
とはいえ、新しいものばかりを求めても伝統が消えてしまう。古きを知りながら新しきを知るという、まさに温故知新の心を大切にしながら、いつも図案作りには苦心しています。この図案作りが蒔絵制作の7割を占めるため、作業のほとんどの時間を費やします。
蒔絵の技術を仏壇作り以外にも生かし、お客様とのふれあいを大切にする
私は父から蒔絵の技を受け継ぎました。父の時代は、バブルの好景気で、仏壇を作れば売れました。しかし、現代はあの手この手の趣向を凝らして、やっと仏壇が売れる時代。現在、私の後継者は息子である長男だけで、この先どうなるのかと不安に思う気持ちもあり、いかに特色を作るかが自分の中の大きな課題でもありました。
そこで、せっかく蒔絵の技術を持っているので、何か商売につなげられないかと思い、京都に蒔絵の分野で成功している人がいると聞いて会いにいき、ブローチの蒔絵装飾を見て「これだ」と思い立ちました。今は仏壇の技術を生かして、琥珀や象牙などに蒔絵をし、ネックレスなどのアクセサリーを作って、デパートの物産展等で販売し、好評を得ています。こういった経験は多少は仏壇作りに反映されていて、絵柄も少しずつ変化しているようにも思います。仏壇の蒔絵の場合は、仏壇屋さんを通してお客様の要望に応えるので、物産展などでお客様と直接ふれあう時間も大切に思っています。
かつては飯山市にたくさんいた蒔絵師も、今では藤沢さんご家族だけになってしまったそう
扇、裏戸、引戸、引出し、唐戸の裏板などに下絵を描き、その上に貝の粉を使った胡粉とニカワの混合物を筆で盛り上げてから漆を塗って、半乾きの上から金粉を塗ることで立体的に仕上げる。この胡粉盛り蒔絵は飯山仏壇だけの特徴
絵はとにかく細かく描いたほうがきれいだとされている。こちらのクレマチス(鉄線花)も、藤沢さんの父の時代にはなかった現代風の絵。制作にはだいたい2週間くらいかかる
職人歴:昭和41(1966)年から
伝統技術を生かしながら時代のニーズに合うデザインを考える
飯山仏壇の飾り金具は、国から銅板、真鍮板、もしくはそれ以上の金や銀、プラチナを使うことが指定されています。しかし、伝統的工芸品というのは、人々が日常的に使うもの、買い求めやすい価格帯のものが適しているということで、高価な金は滅多に使われず、金を使う場合はメッキが使われています。私の場合は、少し硬い真鍮は蝶番などに使い、若干価格は高くなりますが、主に細工しやすい銅を飾り金具として使っています。
伝統的な飯山仏壇に使われる金具は、表と裏で合わせて300枚。しかしながら今は住宅事情が変わり、昔より住居が狭くなっていて、特に都会はアパート暮らしの人が多いので仏壇も小型化し、それに伴って金具も小さいものに変化して来ています。また、洋間にも違和感なく設置できるようなおしゃれな仏壇も増え、デザインにも多少の変化があり、よりシンプルなものが人気となっています。そこで、伝統的な飯山仏壇の特徴を壊さないように受け継がれて来た技術は生かしながらも、現代のニーズに合うような仏壇を作る工夫をしています。
先代から受け継ぐ道具を大切に、飯山の伝統と自分の技術をPR
私は家業を受け継ぎ四代目にあたります。幼少の頃から父が研磨して糊づけをして錆び止めをし、毎日朝から忙しい時は夜まで彫金をくり返して、一生懸命仕上げている姿を見て育ちました。父が作った金具は、仏壇店に並んでいても私にはすぐにわかります。それを見ながら「これを購入したお客さんは毎日手を合わせてくれるんだな。購入して手を合わせてくれる幸せな仕事は、後を継いでみる価値はあるのかな。」そんな風に考えて、後を継ぐことを決めました。普段使っている鎚も、もう何代も使い継がれているもので、壊れても直して使っています。この自分の手に馴染む、使い勝手の良い道具を大切にすることを、日々の仕事の中で最も重視しています。
飯山仏壇の金具の伝統技法は、細かなリズムで蹴りつけるようにたがねで模様を刻む「蹴彫(けりぼり)」というもので、1枚の銅板から細工していきます。私はこの技術を生かして、今はアクセサリー作りも行っています。貴金属店とは違う自分だけのもの一点ものが欲しい人や、若い女性にも好評を得ています。このような機会を生かして、飯山の伝統と合わせ、自分の技術もPRすることが大切ではないでしょうか。
仏壇の金具の注文が入ると、まず木地屋さんに寸法を取りにいって、バランスの良い形や大きさを考えるという鷲森さん。鷲森さんを含め、飯山市の金具の伝統工芸師は現在3名いる
たがねも切断用のものと、模様をつけるものがある。同じ模様でも、仏壇のサイズによってたがねの大きさが異なる
写真は「シベ入れ」という技法で、仏壇の合金具に使われる。このほかに「魚々子(ななこ)巻き」という粒状の模様をつけていく技法も見せてもらった
全国的にも珍しい仏壇通りで、新しい装いの仏壇を生み出す
飯山は昔から浄土真宗系が多く、親鸞上人がこの地を通ったという伝承もあり、飯山城も寺の町として栄えた歴史もあって仏壇作りが盛んになりました。そして何より、漆塗りに適した、乾燥しすぎず適度な湿気が、この地での仏壇制作を隆盛させたと言われています。全国でもひとつの通りで製造も行い、これだけ仏壇店があるのは珍しいそうです。
飯山仏壇の注文は、北信地方を中心に、上越や、県外の居住者でも飯山に縁がある人から入ります。飯山仏壇の特徴のひとつには金を使った豪華な金箔押しや蒔絵がありますが、仏壇にこのような金物を用いるのは北信だけのようです。中南信地方は仏壇の質が違い、黒檀や紫檀など銘木と呼ばれる、木材の木目を生かした唐木仏壇が普及しています。
また飯山仏壇のほかの特徴に重厚な造りがあり、今でも昔ながらの農家のお宅には六尺間という大きな仏壇が見られます。しかし、ここ10数年は住宅が小さくなっているため、大きい仏壇が売れず、また、畳でも洋間でも合うような仏壇が求められているため、当店では小さめの白い仏壇を製造し、評判となっています。また、近年は蒔絵の模様も、雪の結晶や桜といった現代風の図を用い、色合いはあまりたくさんの金を使うことは好まれなくなってきました。お客様と話していく中でそういった要望を聞き出し、仏壇のデザインを決めていきます。
金箔押しや漆塗り、組立のほか、おせんたくも仏壇店の重要な仕事のひとつ
仏壇店の仕事は職人さんにパーツを発注し、集めて組み立てるほかに、制作の8工程の中の金箔を貼る作業と下地・漆塗りをする作業を請け負っています。金箔押しは一般的に女性がやることが多く、漆塗りが男性の作業。愛宕町にはいくつもの仏壇店が並んでいますが、仏壇が同じ形でも、たとえば宮殿に金箔ではなく金粉を使ったりと、店によって塗り方はいろいろと変わり、各店でさまざまなニーズに応えています。
さらに、仏壇店の仕事には「おせんたく」があります。現在、当店では明治42年の仏壇をお預かりし、ちょうどおせんたくを終えて、これから修復の段階に入るところです。おせんたくというと、形になっているものを水で洗って金を上塗りすると思っている人が少なくないのですが、全ての部品を分解して金箔などの塗装を落とし、再度漆を塗り、金箔を貼り直しています。塗装は、10年ほど前までは手塗りでかなり時間がかかりましたが、今は機械でスプレー塗装できるようになったので、だいぶ時間が短縮され、およそ1カ月半ほどで仕上がるようになりました。しかし、伝統的工芸品は「手塗り」か「ろくろで磨きをかける」という工程を踏まないと認定されません。そこで、手塗りの作業を省いている分、電動サンダーで研磨して、下地をかけて漆を塗る作業を行っています。古い金具は金具屋に出して色上げをしてもらい、最終的に再び全てのパーツを組み立て直して完成します。
最近人気の白い仏壇は、岸田屋仏壇店で作る特徴的なもののひとつ。畳の部屋にも洋間にも合い、宮殿のあたりもシンプルな造り
一般的に求められる仏壇のサイズも、近年の住宅事情を反映し、大きいものからより小さいものへと移り変わっている。写真の仏壇は典型的な飯山仏壇の様式を持ちつつも、サイズは小さめ
せんたくをしている工場を見せてもらった。全てを分解し、おせんたくを終えたところで、これから1つひとつのパーツに磨きをかけて、再度塗装をかけていく